平城宮跡保存の歴史を考えて見ようと(1) |
保存運動の前に、荒廃し地元の住民以外からは忘れられていた平城宮跡を初めて科学的に実測した人物として「北浦定政」の名を聞いたのは、二・三年前だったような気がする。最近は奈文研平城宮跡資料館での展示や、いくつかのセミナーでその名を聞くようになって注意するようになった。
◎北浦定政(きたうらさだまさ 1817-1871)
北浦定政 は、大和国添上郡古市村(現奈良市古市村)に町人の子として生まれた。 天保3年(1832)父の死後、津・藤堂藩古市奉行所の印刷方の手代として出仕し、勤めの傍ら和歌、国文学を学んだ。その中で蒲生君平が著した「山稜志」を読んだが、地元の様子と異なることから、山陵の調査を始めたことをきっかけとして、平城京や条里の研究を進め文久元年(1861)ごろ「平城宮大内裏跡坪割図」を作成した。
これらの功績で士分となった後も、神社、野鳥、班田と条里など幅広い分野の調査とその結果を多くの著作として残し、陵墓の調査と修復でも功績をあげている。
定政の功績は、条坊・条里研究の嚆矢であり、平城宮跡の地図を作成したことが、宮跡保存の端緒を作ることにつながったことである。後年、定政の子息が棚田嘉十郎と出会い、父の残した資料類を貸与したのが,棚田の保存活動のきっかけの一つとなったと聞く。
定政は晩年、光仁天皇陵などの陵長などを勤め、明治4年(1871)に55歳で没した。現在、奈良市日笠町のある光仁天皇陵(田原東陵)の南、県道の道路の傍ら一画を削平して北浦定政の顕彰碑が昭和51年11月に建立されている(下の写真の左に写る四角い石碑)。
その碑面を写す。
靈亀亭北浦定政ハ和州添上郡古市
村ノ人 勢州藤堂藩ノ古市奉行所
ニ出仕シ 後藩士トナル 先生
精勵格勤 亦思ヲ山陵古都宮址ノ
荒蕪ニ致シ山林田圃ヲ歩歩ニ踏査
シ考証是レ努ム 打墨縄并大内裏
坪割図ハ成果ノ尤モニシテ學者以テ
指針トナス 故ヲ以テ亦山陵ノ守
護等ヲ命セラレ日夜盡瘁ス 明治
四年歿スルヤ光仁天皇田原東陵ノ
考定修補ニ功アリトシテ仰敬スル
田原村民此ノ碑ヲ建ツ 縁ニ因テ
先生ノ生誕一百六十年ヲ記念シ此
処ニ其ノ偉業ヲ顯彰ス
昭和五十一年十一月六日
北浦定政顯彰會
光仁天皇陵は県道80号線を走る奈良交通バスの「日笠」(近鉄奈良駅から所用時間約35分)下車、北西へ徒歩10分くらいの所にある。県道183号線から少し北へ降りた地形にあり,来月8日に天皇陛下が御参拝に訪れられるとのことで、周辺の掃除が行われていた。