平城宮跡保存の歴史を考えて見よう(3) 北浦定政の墓所 |
文久元年(1861)頃「平城宮大内裏跡坪割図」を作成した。測量では、車が一回転すると1間を表す測量車を作成したといい、同図には条里の坪(1町四方)の交点には○印、条里の境には△印、氏神には鳥居の印、井戸には#の印など、地図に図式記号を取り入れるなどの工夫をしている。
「平城宮大内裏跡坪割図」は、古記録との照合、精査な踏査を行ってこれを作成し、「平城京大内裏敷地図」は、これを一般向けに書き改めたものと思われる。定政は地名についても、歴史的地名と現存地名とを照合し、平城京跡を復元するなど歴史地理学を実践したといわれる。 写真は平城京のの条坊を調査復元して作製した図(平城旧址之図)である。中央の碁盤状の赤い線が平城京の条坊を示している。
9/23に田原東陵と北浦定政を訪れたが、今度は墓所を訪れた事を取り上げる。
近鉄奈良駅から藤原台または山村町行きの奈良交通バスに乗り「春日苑住宅」下車。手前のコンビニ〜サークルKの西側に大木の茂った墓地があり、入り口に「北浦定政顕彰会」の立てた解説が有る。
《解説》
平城宮保存の先駆者 北浦定政墓所
平城宮跡の研究保存と陵墓の整備に尽くした北浦義助藤原定政は、ここ旧古市村(奈良市古市町)の人である。文化14年(1817)に生まれて、明治4年(1871)1月7日その生涯を閉じた。菩提寺念仏寺の当墓地に,永遠に眠る。享年55歳であった。
定政は幼少より勉学に努め、15歳の時古市奉行所に出仕、漢学・算学・測量・絵画等多方面にわたるすぐれた才能に恵まれた。その広範な学識と強い情熱をもって、自らの生涯を平城京ならびに奈良近郊諸陵墓の調査に捧げ、独力で「平城宮大内裏跡坪割之図」「大和国古班田坪割図」「打墨縄」「古都考」など実測図や多くの著書を残している。また晩年は光仁天皇の田原東陵など荒廃した山稜の整備にも献身した。
定政の平城京の研究と保存の業績は、のちに棚田嘉十郎、溝辺文四郎らによる平城宮跡保存顕彰運動として受け継がれ,学問の面でも関野貞、喜田貞吉両博士らによる平城京・宮に関する論攻の出発点ともなった。
(定政生誕百六十年に当たり、ここに説明板、道標等を設置して、その偉大な功績を永く後世に伝えんとするものである)
昭和51年11月 北浦定政顕彰会