平城第495次調査現地説明会(3) |
(1)北調査区
鉄鍛冶工房に関連する鉄津・輸の羽口・鍛造剥片などがあります。金床に利用されたどみられる石の破片も多く、また、砥石が出土しました。そのほか、須恵器・土師器・瓦が出土しました。
(2)南調査区
須恵器・土師器・瓦が出土しました。須恵器片には墨書をもつものが4点あり、何と書いているかわかった2点には「司」や「凡」と記されています。須恵器には硯に転用されたものもあります。
須恵器・土師器・瓦ともに奈良時代後半のものが中心です。また、北側溝からは土馬が出土しました。
5.まとめ
現時点における今回の調査成果は以下の通りです。
(1)北調査区
第486次調査により北方へ続くことが想定されていた鉄鍛冶工房の範囲が確定しました。これにより、北調査区の北方にあった二条大路のすぐ南まで鉄鍛冶工房が広がっていたことが判明しました。今回の調査で検出した鉄鍛冶工房は第486次調査で検出した奈良時代前半の鉄鍛冶工房と一連の工房群を構成していたど考えられます。工房の範囲は朱雀門のすぐそばにまでおよんでおり、大規模なものである点からみても、これらの工房群が都城の造営あるいは改修と関連する可能性がより高まったといえます。古代の都城とそれを支えた手工業部門との関係について、さらに詳細な資料を得ることができました。
また、第486次調査と合わせて、奈良時代前半における平城京の鉄鍛冶工房の具体的な様相がより一層明らかになりました。奈良時代の鉄鍛冶工房の実態と変遷過程を考える上で重要な知見を提供したといえます。
今回の調査区では、工房の廃絶後は整地がなされており、奈良時代後半に位置づけられる遺構はみられませんでした。そのため、これまでにも指摘されてきたように、左京三条一坊」坪の少なくとも西半は広場として利用されていたことを追認できました。
(2)南調査区
三条条間北小路とその南北両側溝の広がりを確認しました。奈良市教育委員会が検出した南側溝は両肩が大きく浸食されており、溝本来の規模は不明でしたが、今回の調査により南北両側溝ともに幅を確定できました。南側溝は西側で幅を広げることが明らかになるなど、三条条間北小路の側溝の詳細な様相が判明しました。
さらに、北側溝が埋まった後に建物が建てられていたことが明らかどなりました。側溝や道路が使用されなくなった後の土地利用の一端が判明したといえます。ただし、北側溝が埋まった時期や南北両側溝が役割を終えた時期の前後関係などについては現在も調査を継続中です。
なお、二坪を区切る築地については、築地本体の版築などの確実な痕跡は確認できていません。ただし、奈良市教育委員会の調査成果と同様に、築地塀が想定されている位置には何もない空間が広がっていることを確認しており、また築地塀に関連する可能性のある穴も検出しています。さら
に、周辺の出土状況に対して南側溝付近からは比較的多くの瓦片が出土しています。これらのこどから、南調査区の南端部には本来築地塀が存在していたと考えられます。