平城京は九条まで<南限> |
大和郡山市の平城京南方遺跡で、京内を南北に走るメーンストリート「朱雀大路」が、京の南部にある東西方向の大通り「九条大路」で終わり、平城京の範囲が九条までだった可能性を示す溝跡が昨年31日までに見つかった。県立橿原考古学研究所が発掘した。天皇が住む平城宮から南に延びる朱雀大路の側溝の南端とみられ、朱雀大路を基準として碁盤の目状に整備されていた京の範囲(京域)を決定づける重大な発見。調査した同研究所の鶴見泰寿主任研究員は「京域の南が九条までだった可能性が一層高まった。京の景観を復元できる貴重な手掛かりだ」としている。
◆「京域論争」 重要な一石
京域をめぐっては江戸時代以降、九条までとするのが通説だった。しかし、平成17~19年の大和郡山市教育委員会と元興寺文化財研究所の調査で、さらに南で「十条」とみられる区画跡が見つかり、朱雀大路とともに十条まで整備されていた可能性が浮上。一部で論争も起きていた。
橿原考古学研究所が8~10月、九条大路にあった正門「羅城門」跡の南西部にあたり、朱雀大路の側溝跡が昨年確認された調査地の約25m南を調査。側溝がまっすぐ南には延びず、羅城門がある東側へL字形に曲がっていたことを確認した。朱雀大路に接続する、より道幅が狭い「下ツ道」の側溝につながるために曲がっていたとみられ、周辺が大路の終点と判明した。
鶴見主任研究員によると、朱雀大路は羅城門までで、南の約25mの範囲は門前の広場的空間だった可能性があるという。
明治大大学院の井上和人特任教授(考古学)は「平城京の規模を確定する非常に貴重な発見だ。今後は唐の長安城と比較するなど、十条のような区画がなぜ京外に設けられたかを考えるべきだろう」と指摘。
大和郡山市教委の山川均主任は「調査範囲が限られている。引き続き慎重な検討が必要だ」と話している。
現場は既に埋め戻されている。
以上は1日の「奈良新聞」記事から