玄昉の首塚(史跡「頭塔」)の公開今日まで |
東大寺南大門の南約950m、新薬師寺から西北西約700mの位置に築かれた方形七段の土塔で、神護景雲元年(767)に東大寺の実忠和尚が造立した土塔が誤たれて、奈良時代の玄昉僧正(?~746)の頭骨を葬った所という伝説が生じた(ちなみに玄昉僧正の像が興福寺国宝館に展示されている)。
頭塔造立の目的は五重塔などと同じように仏舎利を納める仏塔と考えられている。頭塔は大正11年(1922)3月8日に国の史跡に指定されている。昭和52年、石仏が重文に指定され、調査後発見のものが 平成14年に追加指定されている。
昭和61年から9次にわたる奈文研の調査で、①頭塔は一辺32mの石積基壇上に7段の階段状石積が築かれ、全体の高さは約10mであること。②奇数段には、石積上に瓦葺屋根が施され、側面には仏龕が穿たれ石仏が配置されていたこと。③頭塔の内郡に当初期の頭塔があることなどが判明し、頭塔が他に頬例のない仏塔であることがより明らかになった。
石仏は薄肉彫とし、仏菩薩の顔、仏身は豊満な表現で、これに配する天蓋や蓮痙は宝相華に飾られて優雅で、大陸系の天平様式が示される。石仏には大・中・小の三種あり、大形のは如来坐像と両脇侍の三尊を主体に、宝相華の天蓋と飛雲を上に作り、中尊下方左右に小菩薩が侍する。中形は坐像の三尊を中心とし、背後に二体か四体の菩薩を配し、後方に宝楼閣の上半をあらわす。小形ほ如来一体が中心となる。線刻の一体は仏伝中の浬繋図である(『石造美術辞典』)。数少ない奈良時代後期の石仏として美術史上きわめて買重なものという。郡山城の石垣に1基転用されているのは、同好者にはよく知られるところ。
今日まで南都銀行OBのボランティアサークルの人達による解説が聞かれる。特別公開以外の見学は仲村表具店<現地管理人>に申し出れば可能。