9/18-19 郡山城天守台調査報告会 |
郡山城は、西ノ京丘陵の南端部に築かれた平山城である。天守台のある本丸を中心として内堀・中堀・外堀によって囲まれた総構えの構造をもつ。
天正年間に大和国唯-の城郭として築城を開始し、天正8(1580)年、筒井順慶が入城。城郭の骨格は同13(1585)年に入部した豊臣秀長によって形成されたと考えられている。文禄4(1595)年に入部した増田長盛による外堀普請で完成した城郭の形状は現在までその姿を良好に保っている。
関ケ原の戦い後一時廃城となるが、大阪・京都に近い要衝として幕府に重要視されて元和元(1615)年に復興。水野、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主を努める。享保9(1724)年以降幕末まで柳沢氏による安定した治世が続き、江戸時代を通じて大和国の政治経済の中心地として繁栄した。
はじめに
郡山城の天守台は、城郭の中心部である本丸の北端部に位置する。城内でも高所にあり、特に東方への眺望が開け、城下町や奈良盆地北半部を広く見渡すことができる。
天守台は平面形が上面で約16×18m、基底部で約23×25mの南北に長い長方形で、高さが約8.5m。南に高さ約4.5mの付櫓台が取り付く複合式の形態である。石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石などの転用材が多く用いられている。明治時代には天守台に「植松桜碑」という石碑が、付櫓台に柳沢保申公を祭祀する祖霊社がたてられ、現在ある東から登る階段もそれらに伴ってつくられたものである。築城から明治時代に廃城するまでの間、天守に関する史料がほとんど存在しておらず、実態は不明である。築造年代には諸説があるが、江戸時代には天守が建てられなかったとみられている。
今回、天守台展望施設整備事業をおこなうにあたり、遺構の残存状況を把握するために天守台上面と石垣基底部および付櫓台の一部で発掘調査をおこなった。
調査成果
天守台 約180㎡を調査し、天守に伴う礎石などを確認した。
礎石は、一部が後世に取り除かれているが23石が良好な状態で残存していた。東西方向に列状に並んでおり、北・中央・南の3列がある。礎石がない位置には根石が残
り、1列に12~13石あったことがわかる。礎石には0.9~1.2mの大型と0.6~0.8mの小型の2種があり、両者を交互に並べている。礎石列の上に建物の土台となる長大な木材を横方向に置き、土台の上に柱を据える。大小の礎石は半間間隔で設置されており、大型礎石の位置に一間間隔で柱が立つと考えられる。また、南北方向に根石の痕跡が並んでおり、残存する礎石列と直行する東・西2列の礎石列があったことがわかる。50cm前後の石を円形または方形に並べ、その上に10~20cmの栗石を敷き詰めた大規模な根石が規則的に配置されており、この上には大型の礎石が置かれたとみられる。大規模な根石と大型礎石の間には礫を集めただけの小規模な根石があることから、南北列も東西列と同様に半間間隔で大小の礎石を交互に並べていたと考えられる。南北列の礎石上面は東西列の礎石上面よりもレベルが高くなるとみられることから、土台は立体交差状に設置されていたことがわかる。石垣天端石までが建物の範囲と考えられ、礎石の配置から、東西・南北の礎石列が交差する内側が、南北2室に間仕切りする柱間3×4間の身舎となり、その外周に2間幅の通路状の武者走がめぐる7×8間の平面規模をもつ天守を復元することができる。
天守台南面石垣には天守への入口に伴うとみられる2列の石積みが接続する。石積み間の幅は3mで、天守礎石と一連で築かれている。40~50cmの石が2段積まれるが西側は大部分が後世に破壊されている。この部分の南面石垣は当初切欠状に積まれていたようだが、後世に閉塞されている。
礎石など天守の遺構は、建物の廃絶後、礫敷によって覆われていた。3~10cmの礫を敷いたもので厚さは最大で約20cm。天守台上面全域におよぶ。時期や目的は明らかではないが、天守台における土地利用の変遷を示す重要な遺構である。
天守台石垣では北面・西面の一部と北西隅部において基底石の設置状況を確認した。基底石には他の築石と同様の大きさの自然石を用い、本丸の盛土を掘り込んで上
面が水平に揃うように高さを調整しながら据える。北西隅の基底石には1.5m以上ある長大な石を用い、付近には幅約30cmの溝が3本設けられていた。性格は不明だが隅部
のみに施工されたもので、注目される。
付櫓台 付櫓台には南面石垣付近に入口の表現がみられる絵図があり、確認のため約20㎡の調査区を設けた。
付櫓地階に伴う南北方向の石垣2面を確認した。両面間の幅は約3m。現地表面から地階の床面までは2.2m。石垣は55~80cmの自然石による野面積みで、基底部から2~3段(高さ0.6~1.1m)が残存していた。地階床面では4石の礎石を確認した。入口に伴うものと考えられるが詳細は不明である。礎石の近くでは土師器皿を埋納した土坑も検出している。付櫓地階の床面も天守台同様、後世に礫敷で覆われる。
出土遺物 天守に伴うと考えられる遺物には礎石が設置された床面上から出土した瓦類がある。豊臣期大坂城金箔瓦と同笵の軒丸瓦や聚楽第に類例のある軒平瓦のほか、
鱗瓦や鬼瓦の一部もみられる。これらは16世紀末のものと考えられる。また、付櫓地階の埋め立て土からは、金箔が残る菊丸瓦の小片が出土した。郡山城での金箔瓦使用を示す初例である。
まとめ
今回の調査では天守の遺構が良好に残存していることが明らかになった。天守は1階が7×8間であり、5階建て相当の建造物が想定される。付櫓台では石垣を伴う地階
および築城時の入口を確認した。従来存在自体が不明瞭だった天守の実態について具体的に迫ることが可能となった意義は大きい。
天守の年代については、遺構に改修の痕跡が確認されないことや出土した瓦から16世紀末、すなわち天正~慶長初頭の豊臣政権期(秀長、秀保、増田長盛)に築城したものと考えられる。また、郡山城での金箔瓦使用を確認できたことは織豊期の城郭政策を考える上できわめて重要である。
現在残る天守台や本丸の築造年代については、これまで資料が少ない状況にあっが、今回の調査により大部分が豊臣政権期の姿を良く残している可能性が高くなった。同時期の城郭については様相が明らかでない部分も多く、全国的な城郭の構造・築城技術の発展を考える上でも重要な成果と評価することができる。
<以上、当日の配付資料から>