僧の住まいに相違「中室」調査、西室より区画狭く=興福寺 |
調査は1998年から続く境内整備事業の一環。僧坊は内部を区切った細長い建物で、大寺院の興福寺では、講堂の北と東西を僧坊3棟が囲む「三面僧坊」が造られていた。東側の離れた場所にさらに1棟あるため、講堂東側の僧坊は「中室」と呼ばれた。
中室の規模は、柱の礎石から東西12.4m、南北62.8mと西室とほぼ同じと判明。しかし、東西の柱は12列で西室の11列より多く、南北柱間は西室より狭かった。中室の房は1区画69~73平方mで、西室の同82平方mよりやや小さく、一房多かった。
興福寺には奈良時代、400~500人の僧侶が生活し、1房あたり約8人が生活していたとされる。鈴木嘉吉・元奈文研所長(建築史)は「同じと思っていたが、西室と中室は長さは同じでありながら柱配置が違った。貴族でも僧侶になれば『房』で集団生活をしたが、身分などの差があったのだろう。平城京の大寺院の暮らしぶりが分かる興味深い発見」と新聞に談話が掲載されていた。
経典を収めた経蔵や、鐘をついた鐘楼の跡でも、創建時の基壇(土台)や礎石などが、奈文研の発掘調査で出土している。経蔵跡の全面発掘は、奈良時代に平城京に建立された大寺院では初めてという。通路や排水溝とみられる石敷きも見つかり、同研究所は「大寺院の中枢部の様子を知る上で貴重」とする。
経蔵跡から出土した基壇は南北約15m、東西約11m。創建時の礎石が11個残っており、建物の大きさは南北約10m、東西約6.5mだったことがわかった。
鐘楼跡でも、創建時の基壇や礎石の一部が出土し、基壇・建物ともに経蔵とほぼ同じ規模だったことが突き止められた。
興福寺は藤原不比等が8世紀前半に建立。僧坊などは7、8回火災に遭い、その都度再建されたが、江戸時代の享保二(1717)年の火災以降は再建されなかった。