きょう5日は東大寺 俊乗忌 |
多くの人が参拝に訪れるのは、この法要後に参拝者に堂内が解放され、俊乗堂に安置されている3躰の彫刻像が公開されるからです。
俊乗堂に安置されている3躰の彫刻像とは、重源上人坐像[鎌倉時代・国宝](画像中央)、阿弥陀如来坐像[鎌倉時代・重文](画像右)、愛染明王像[平安時代・重文](画像左)です。
◆ 重 源
保安2(1121)に京都の武士の家に生まれた重源は13歳に出家し醍醐寺に入門。その後、大峯山に始まり熊野・御嶽・葛城の山野で修行に明け暮れたといいます。
そのころの日本は平家隆盛の時代。平治の乱で源頼朝が伊豆に流されたのが重源40歳の時。そして、重源が60歳を迎えた治承4(1180)年、平清盛の五男、重衡が率いる平氏が南都焼き討ちを行い、東大寺大仏殿も兵火によって焼け落ちました。
戦乱の後には手足も焼け落ちた大仏が1年以上も放置されていたような有様だったと言います。そんな惨憺たる東大寺の復興のために立ち上がったのが、皇族の長として君臨していた後白河院でした。
治承5(1181)年6月には東大寺復興のために藤原行隆を造寺造仏長官に任命、復興のための知識を募る勅書を出しました。
そして、同年8月には初の大勧進職を置くことを勅したのです。
この大勧進職ですが、その歴史は奈良時代の大仏建立までさかのぼります。聖武天皇が大仏建立を進めた時、当初は朝廷が権威の力で造仏をしようとしたが建立は進まず、また民衆から批判を受けることとなりました。
そこで協力を得たのが、民衆からの信望の篤かった、高僧の行基でした。
行基は仏教の前では王侯貴族も民衆も皆等しく救われるという信念を持っていて、かつては政府から弾圧される身でもありました。国家権力では無く、民衆すべての信仰心を集結し、大仏を通して国民の心を一つにまとめるべきと説いた行基の考えに聖武天皇も共感し、大仏建立は国家先導から国民一人一人が自身の意志でなされるという勧進事業として行われたのです。
後白河院は鎌倉時代の大仏再建に向けて、この行基が説いた理念も受け継ぐことも考え、国家と国民とを結ぶ行基のような“大勧進職”を設けました。その初めての大勧進職の役を朝廷より任じられたのが、この重源だったのです。
朝廷はこの大事業のリーダーに相応しい高僧として、当初は比叡山僧であった法然に大勧進職に就けようとしました。浄土宗の開基として民衆からの支持を集めていた法然こそ行基の志を継ぐ者として相応しいと白羽の矢を立てられたのです。しかし、法然はこの朝廷からの命を固辞し、そしてその代わりとして推挙したのが、醍醐寺僧の重源だったのです。
その頃の重源は法然ほどの高名の僧ではありませんでしたが、大勧進職として最も適した人物として法然は推したのです。法然が重源を推挙した理由は、修験道僧としての高徳もありましたが、当時交易が盛んになっていた宋に渡り、大陸の先進文化を多く会得していた実績が大きかったのでした。
重源は寧波の古刹・阿育王寺で舎利殿の修造を受けたことが記録にあり、彼の地で大陸の建築技術などを会得していたのです。重源の宋での経験は、東大寺再建で大いに活かされるのです。
永らく巨大鋳造物を作っていなかった当時の日本には大仏を鋳造出来るような技術者がおらず、日本国内の鋳物師たちも東大寺を視察して、大仏再建は不可能と判断していたのです。しかし、入宋の経験が豊かだった重源は、宋の関係者との関係も深く、たまたま来日していた宋の鋳物師、陳和卿(ちんなけい)に大仏鋳造の技術者として白羽の矢を立てるのです。
このように重源は東大寺再建に大陸の技術者を多く起用し、当時の最新の文化や技術を取り入れたのです。このようなことが出来たのも、大勧進職に大陸との関わりの深い重源が担ってこその話なのです。
こうして大仏再興が進む中、時代は源平合戦の戦乱へと向かっていきました。治承5(1181)年、南都焼き討ちで大仏殿が炎上した翌年に平家の棟梁・清盛が没。そしてその後は平家は源氏との戦いで敗走を繰り返し、元暦2(1185)年、壇ノ浦にて平家は滅亡するのです。
そしてその平家滅亡してすぐに改元した文治元年8月26日、重源の指揮にて進められてきた大仏鋳造が完成をし、開眼供養が営まれました。後白河院によって大仏再建の詔が発せられて4年、奈良時代にはインド僧・菩提僊那が務めた開眼導師を、この時にしたのは後白河院自身でした。これは重源の進言によって実現したとされています。
そして、大仏開眼の後は、戦乱で焼けた建物の復興へと重源は取り掛かり、資金と建材の調達のために西日本を中心に周ることとなります。そして帰国技術者としての重源の本領は、ここからより遺憾なく発揮されることとなるのです。
天平時代に建てられた東大寺の建物は、南大門が大風で何度も倒壊するなど強度に問題がありました。重源は永年維持される伽藍を建築するために、宋で会得した新たな建築方法を東大寺再建に持ちました。後世において『大仏様』と呼ばれる、南宋で用いられた建築方法を規範に、重源が編み出した独自の建築方法です。
棟上げからわずか5年後、建久五(1195)年3月12日、大仏殿の落慶供養が営まれます。落慶には時の帝、後鳥羽天皇の他、源平合戦に勝利を果たした源頼朝・北条政子夫妻も参列しました。平家が仏敵として焼き払った東大寺を、頼朝と後白河院が協力して再建を果たす。源平合戦の勝者が正統な統治者である証しとして、大仏再建に政治的な意味もあって尽力したのです。
そして、75歳となった重源は、大勧進職としての功績を讃えられて、大和尚の称号を与えられるのです。
このように、実現不可能とまで言われた東大寺大仏殿の鎌倉期再建を、重源は持てる能力のすべてをつぎ込んで成し遂げたのです。もちろん、後白河院や源頼朝と言った権力者の後押しも大きかったでしょうし、法然が勧進事業の後ろ盾になって、民衆の支持を集めたこともあったでしょう。
しかし、それ以上に、自らが優れた技術者であり、勧進事業にその能力を活かしたことが、重源が大仏再建を果たせた大きな理由でありました。
◆地元への貢献
重源は奈良時代の行基や江戸時代の公慶同様に諸国に赴き勧進活動を行いましたが、重源らしいのは勧進事業において土木工事を行い、地元に貢献をしているのです。
河内国の狭山池や和泉国の谷山池などでの治水工事。吉備・播磨両国境の船坂山の峠道の道路整備。摂津国の兵庫関(現在の神戸港)や渡辺津(旧淀川・天神橋の近く)などの港湾工事なども行ったとされています。重源は得意の建築・土木技術を、各地での勧進活動にも活用していたのです。
大仏殿建立を果たした重源は、さらに大仏殿回廊や中門、戒壇堂、大湯屋、鎮守八幡宮、南大門と、精力的に東大寺伽藍の復興にまい進して行ったのです。そうして、南大門の仁王像を完成し、東塔の建設に着手しはじめた建永元(1206)年、旧暦6月5日、重源は東大寺の浄土堂という場所で入滅しました。卒年86歳。
その後も受け継がれた大勧進職も、戦国時代には資金難などで途絶えてしまいます。そしてその戦国時代、永禄10(1567)年に三好・松永久秀が争った『東大寺大仏殿の戦い』によって、重源が再建した鎌倉時代の伽藍も、そのほとんどが焼失してしまいます。
その失われた東大寺大仏殿を復興すべく、朝廷に懇願して途絶えていた大勧進職を復活させ、現在の大仏殿を再建したのが江戸時代前期の僧侶『龍松院 公慶』でした。
大勧進職となった公慶は自らを「重源の意志を継ぐ者」と語り、鎌倉時代の東大寺復興を果たした重源のことを尊びました。大仏再建の意義を世に伝えるために、重源の大勧進職としての功績を取り上げたのです。
そして公慶は、鎌倉期に造られた『重源上人坐像』を祀るための立派なお堂を、重源が暮らし、そして臨終の地とした浄土堂の故地に建て、重源を遺徳を示したのです。それが、今に残る俊乗堂なのです。俊乗坊 重源とは、鎌倉時代の大仏殿再建の偉業を果たした初代大勧進職。その遺徳を讃え、菩提を弔うために、江戸時代の大勧進職・公慶が、重源が住し臨終を迎えた浄土堂の跡に建てたお堂が俊乗堂です。
以上は
タクヤNote http://ameblo.jp/elephant-dogfight/entry-11889831932.html
http://ameblo.jp/elephant-dogfight/entry-11893123561.html
というブログから引用したものです。詳細な図も多く収録され詳しい内容は一読をお勧めします。