平城京左京二条四坊十坪の調査現地説明会=JR大和路線の直ぐ西側 |
◆マンション建設予定地に貴族の邸宅があったと判明!
昨年12月下旬から約2877平方メートルを調査していた奈良市教育委員会が、調査地の南側で四面に庇のついた大型建物や区画塀などを確認し、20日(土)現地説明会を開いた。近くの佐保小学校の児童も多数参加するなど直前の話題性に富んだ報道もあり、真夏日になった厳しい暑さの中、大勢の見学者が訪れていた。午前10時の第一回の説明では発表パネルを前にして熱心に、発掘を担当した永野智子主事の説明を聞いた後、発掘のポイントでの説明に耳を傾けていた。
□調査成果の概要
今回の調査で見つかった遺構は、掘立柱建物36棟、掘立柱塀13条、溝14条、井戸8基、土坑10基で、大きく3時期の変遷がある。
▽Ⅰ期-1:奈良時代中頃~後半(8世紀中頃~後半)=坪内を一体で利用する時期
▽Ⅰ期-2:奈良時代中頃~後半(8世紀中頃~後半)=1期とほぼ同じ位置で建物が建て替えられ、坪内は3つに区画される。
▽Il期:奈良時代後半~平安時代前半(8世紀後半~9世紀)=坪内が分割利用される時期で、坪内道路で東西に2分割し、それぞれの区画を塀や溝によってさらに細分して、桁行2~5間、梁間2間規模の比較的小規模な建物が建つ。建物は柱筋を揃えて建てられているものが多く、少なくとも2回以上建て替えられています。
▽Ⅲ期:平安時代末~鎌倉時代(12世紀後半~13世紀)=発掘区の北端では、平安時代末~鎌倉時代の掘立柱建物や土坑が見つかり、この付近には興福寺領荘園佐保田庄があったことが知られ、それに関連する遺構が広がっていたものとみられる。さらに、今回の調査で東端で中ツ道の可能性がある溝を発見。
□出土遺品
特筆すべきものとして倒立した状態で出土した奈良三彩小壷や井戸SE27から出土した帯金具などがある。
□ ま と め
左京二条四坊十坪では、奈良時代中頃~後半に坪内が一体として利用され、少なくとも一町規模の貴族の邸宅があったことがわかった。この時期には、溝や塀で区画された大型建物が建つが、中でも1-2期の南西区画内にある大型建物SB10・11は注目される。
今回の調査では、この周辺が貴族の邸宅が建ち並ぶ高級住宅街であったことが再確認され、大規模宅地が奈良時代後半に分割される事例として貴重な情報を得ることができた。