“玄昉”の功績を、漫画で正しく知って! |
◆初代住職に就任~海龍王寺がリーフレット作製
海龍王寺(石川重元住職)は、奈良時代の高僧で同寺の初代住職、玄昉の功績を漫画で分かりやすく解説したリーフレット「玄昉さんのスゴイところ」を作った。昨年製作した「海龍王寺のスゴイところ」に続く同寺の漫画リーフレットの第2弾。俗説による誤解も多い玄昉について正しい認識を持ってもらうことが狙いだ。
玄昉は養老元(717)年、阿倍仲麻呂や吉備真備らと同じ第9次遣唐使として中国・唐に留学。天平七(735)年に帰国した後、聖武天皇の信頼を得て平城宮内の宮廷寺院だった海龍王寺の初代住職となり、鎮護国家と仏教興隆に尽くした。
しかし、その栄達が藤原広嗣の乱の原因となったこともあり、「光明皇后に取り入って政治を私物化した」など俗説も多い。
リーフレットでは奈良市在住の漫画家、西村友宏さんが作画を担当。寺名の由来にもなった帰国の際に「海龍王経」を唱えて無事に嵐を乗り切った逸話なども交えて玄昉の生涯を描く。また観世音寺(福岡県)の完成後は記録が無くなり、不明なことが多い玄昉の晩年*については、再び唐に渡ったという伝説も紹介している。
リーフレットは寺などで配布。好評で初版の3000部が既に無くなり、新たに3000部を増刷した。寺のホームページにも掲載している。
石川住職は「唐から多くの経典を持ち帰り、もし玄昉がいなければ日本の仏教発展はなかった」と強調。「今年は第9次遣唐使が唐に出発して1300年目の節目でもあり、多くの人に玄昉の功績を正しく知ってほしい」と願っている。
◆玄昉に関する伝説
玄昉は筑紫観世音寺に仲麻呂によって天平17年に左遷され、その翌年没した。その死亡原因は藤原広嗣の遺臣によって殺害されたというのが真相のようである。だが、後に玄昉の死は広嗣の怨霊によるものだという説が流布されるようになる。その一つとして臨済宗の僧である虎関師錬(1278年~1346年)が鎌倉時代に著した日本初の仏教通史といわれる「元亨釈書」に記されているという。
以下は中公文庫 松本清張著「眩人」に記載されているものである。
※ 松本清張著「眩人」が伝える玄昉伝説
「玄昉が筑紫観世音寺の造立供養の導師となって高座で読経をしている際、空がにわかに掻き曇って雷電し、黒雲が高座に舞い下りて彼の首をつかみ取って天に昇り、次の年の六月にその生首が興福寺の南大門に落ち、空にどっと笑う声がしたという。 (中略) 身首ところを異にした玄昉の首のほうはそれを埋めたという奈良市内の[頭塔]がいわれ、身体のほうは筑紫観世音寺境内にある「玄昉の墓」がいわれ、霊のほうは松浦宮に祀られたことになっている。玄昉は三つに分裂して、三箇所に葬せられているわけである。」