西大寺食堂院跡出土の木簡 時代の見直し−奈文研− |
昨年、奈良市の西大寺食堂防跡で出土した木簡の年号について、奈良文化財研究所は5日までに、平安時代中期の「正暦二(991)年」から、「延暦十一(792)年」に見解を修正した。崩し字が「正」と読め、藤原道長の時代まで木簡を記録媒体としていたことが研究者を驚かせた。その後、同じ井戸から「延暦」と書いた木簡が複数出土し、.調査報告書で見直しを明らかにした。
木簡は井戸(一辺約2.3m〉を埋めた土に含まれており、土ごと取り上げて洗浄作業を進めてきた。削り屑(くず)を含めると千点を超えるとみられている。
同研究所が昨年11月に調査成果を発表した際、年号の書かれた木簡は一点だけで、字形から延と読むのは困難▽応和二(962)一年の大風で食堂院が倒壊しており、その後の衰退と井戸の廃絶がつながる−などの理由から「正暦二年」と結諭づげた。
しかし、その後、明らかに「延暦」と読める木簡が五点見つかり、うち三点は正暦の木簡と同じ赤江庄(福井県)の黒米に付けた荷札だった。一緒に出土した土器の形式も八世紀で、「延暦を意図して書いたと解釈するのが穏当」と見解を見直した。
「二」とした数字も「十一」と改め、最終的な結論は「延暦十一年」(792)。長岡京から平安京に都が移る直前で、藤原道長が栄華の階段を駆け上っていた時代の木簡は〝幻〟となった。
ただ、井戸枠の年輸年代は七六七年ごろ。平城京内でも最大規模の井戸が、わずか二十年で埋められたことになる。同研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「僧侶が一堂に集まって食事する習慣がなくなったか、平安遷都などの政治的要因が考えられる。長周京の歴史的な位置づけにも一石を投じることになるだろう」と話している。