大和郡山の下三橋遺跡=築造時期などで論戦 |
平城京の南限を十条大路に拡大する遺構が確認されたことで知られる大和郡山市の下三橋遺跡の発掘調査成果を考える研究集会「古代都城と条坊制—下三橋遺跡をめぐって—」が、奈良市の奈良女子大で開かれたた。羅城(城壁)の範囲と築造時期、水由の区割「条里」の施工時期を巡り、調査担当者と研究者の間で論戦となった。
研究者ら約100人が参加。調査担当者の山川均・大和郡山市教委主任と佐藤亜聖・元興寺文化財研究所主任研究員が成果を報告。羅城の年代は、出土した瓦や日本書紀の記述、羅城門(平城京の正門)の築造年代などから750年ごろとし、範囲も羅城門から東西計1キロまでとした。
奈良盆地に広がる条里の施工時期は、平城京の条坊(碁盤目状の街区)が十条まで作られた後に九条まで切り詰められ、十条地区が特殊な条里となった後に、一般的な条里が施工されたとした。
これに対し、小沢毅・奈良文化財研究所室長は、平城京の条坊より条里の施工が先行するとし、羅城の年代も、羅城門付近から出土した瓦の検討から、8世紀の前半にさかのぽる可能性を指摘。井上和人・奈良文化財研究所室長は、羅城が京域南辺全体にあったとした。
討論では、山川主任の「平城京以前の条里のこん跡が発掘されないのはなぜか」という質間に、小沢室長が「平城京の条坊施工で失われた可能性があり、発掘で確認するのは困難だろう」と答えるなど、議論が交わされた。【大森顕浩】
【毎日新聞 1/16】