平城宮跡東院地区発掘調査〜ベールを脱ぐ中枢部 |
奈良時代に皇太子の住居や天皇の宴会場所などがあったとされる平城宮跡の東院地区で、奈良文化財研究所がここ数年、継続的に発掘調査を進めている。特に奈良時代後半は、天皇の代替わりとほぽ並行して大規模に建て替えていた実態が明らかになってきた。1月の発掘でも、巨大な方形区画を囲む建物の存在や、宮殿とみられる総柱建物が確認された。べールを脱ぎ始めた東院地区に迫った。【大森顕浩】
東院地区(南北350m、東西250m)は、皇太子が住んだ「東宮」があったと推定される。続日本紀などは、称徳天皇の時代に完成した緑色のうわぐすりをかけた瓦をふいた「玉殿」や、光仁天皇の時代に「楊梅宮」と呼ばれる宮殿があり、儀式や婁会が頻繁にあったとされる。
東院の南東隅にL字形の池(東西60m、南北60m)を備えた当時の豪華な庭園の達構が確認され、現在は現地で復元されている。しかし、この東院の庭園の北に広がるとみられる東院中枢部は、文献は詳しい記述はなく、その構造や変遷は不明のままだった。
私が初めて東院地区の発掘を記事にしたのは98年。8世紀後半の大規模な総柱建物(建物の内側にも柱を並べ建てた建物)が当時、確認された。奈良国立文化財研究所は、天皇が宴会に用いた高床式の楼閣宮殿として復元想像図も作った。これを見た瞬間「ここが中枢部なのか」と思った。実は発掘地点は、東院地区を東西に分ける中軸線より西に離れた場所にあるため、大型の楼閣宮殿の存在にもかかわらず、当時から東院中枢部はさらに東にあると考えられてきた。
奈良文化財研究所では、この東院地区の性格を知るには中枢部の全容把握が必要と判断。06年度から5カ年計画で集中的な発掘調査に乗り出した。その結果、東院地区は①奈良時代前半②奈良時代中ごろ③孝謙天皇の750年代④称徳天皇の760年代⑤光仁天皇の770年代の5時期の建て替えがあることが分かってきた。98年の宮殿も、760年代にしか存在しなかったのだ。
98年の建物より東で、東院中枢部により近いと思われる場所でも、頻繁な建て替えが及んでいる。同研究所の浅野啓介研究員は「全面的な建て替えは権力の巨大さを感じさせる。昔から天皇の代替わりのたびに、宮を建て替えてきた習慣の名残りかもしれない。当時でも恭仁京や紫香楽宮などに一時移ったこともある。平安宮に移ってから宮が固定されるようだ」と話す。
中枢部の施設の一端では、と思われる建物遺構も出てくるようになった。昨年の発掘では回廊とみられるL字形の建物跡が760年代で見つかった。今回の発掘でも奈良時代生ごろで総柱建物や見栄えのする石組溝、小石を敷き詰めた広場も見つかった。宮殿の可能性が高いという。750年代でも、長大な方形の区画の北西隅とみられる細長い建物がL字状に並んでいた。
浅野研究員は「今回の場所が750年代で東院中枢部の北西隅部分に当たるだろう。これまでの発掘で東院中枢部の位置が推定できるようになってきた。全容判明にだいぷ近づいた。時代ごとに大きな変化がある東院地区の発掘は、当時の古代国家の権力の大きさや、建て替えが必要と感じた当時の政治意識を実物で明らかにできる意義がある」と話している。 【毎日新聞 2/9】