平城京の範囲、十条までに拡大? |
平城京が定説を覆す南北十条だった可能性をふまえ、県と大和郡山市、奈良市、奈良文化財研究所の四者が新たに加わる遣跡の範囲や名称をめぐって協議している。遺跡地図で平城京と認定されているのは九条まで。昨年確認された十条大路とみられる道路跡で線引きし直すことになりそうだ。ただ、遺跡の名称は両市の間で決着がつかず、未調査の右京域の扱いも課題となっている。(文化担当・増山和樹)
▽南北十条
大和郡山市の下三橋遺跡で平城京の条坊とみられる道路跡が見つかったのは平成17年。九条大路の南側で、「南北九条」とされてきた平城京は、南に広がる可能性が高まった。昨年6月には十条大路にあたる道路跡が出土、同市教委は「平城京は南北十条」と発表した。遣跡の名称について同市教委は、「平城京」の認定範囲を十条大路まで拡大したい考え。新たに加わった一条分は「平城京十条○坊○坪」と位置を当てはめて呼ばれることになる。
▽都はどこまで
一方、奈良市教委は「京南条坊遺跡」を主張、「都としての平城京はあくまで九条」との見方を変えていない。下三橋遺跡の東側に市境があり、拡大する一条分(左京)は半分以上が奈良市域だ。
市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長は「建設間もなく廃絶しており、平城京の試行プランに過ぎない。計画段階のプランを都とは呼べない」と話す。
文献に「十条」が登場しないことも根拠の一つで、平城京と認定するには「もう少し解明作業が必要」という。
大和郡山市教委は「厳密には仮称」としたうえで「条坊が出てきた以上、平城京と考えるべき。『京南条坊遺跡』では一般に分かりにくく、○条○坊と位置も明示できない」と指摘する。
▽未調査の右京域
平城京はメーンストリートの朱雀大路をはさんで左京(東側)と右京(西側)に分けられる。京内は条坊と呼ばれる碁盤目状の道路で区画されていた。下三橋遺跡は左京で、大型商業施設の事前調査で条坊跡が見つかった。大和郡山市教委と元興寺文化財研究所が発掘したのは約三万平方メートル。条坊の解明には広範囲にメスを入れる面的な調査か交差点を狙った学術調査が有効だ。
行政への届け出にもとづく事前調査は、遺跡地図に掲載された埋蔵文化財の包蔵地や一万平方目メートル以上の開発に限られる。佐保川から西側の右京は住宅密集地も多く、九条大路以南の調査はほとんど行われていない。
多くは郡山城として遣跡地図に掲載されているが、佐保川の西側に未認定の市街化調整区域が広がる。遺跡が無届けのまま姿を消す事態を避けるためにも、右京の九条〜十条間に遺跡の網をかぶせる必要がある。
大和郡山市教委は「遺跡でない部分は市街化調整区域で開発の可能性は低い。ただ、線引きは見直される可能性もある。開発に備えてグレーゾーンも積極的に含めるのが遺跡地図の精神」と話す。
右京は十条大路までしか条坊が施工されなかったとみる研究者もいるが、県教委文化財保存課も「マックスで考えている」としており、右京も含めた九条〜十条間全域が遺跡地図に記載される見通しだ。
▽遺跡の名称
最後まで残るのは遣跡名の間題で、こちらは両市が折り合うことはなさそうだ。大和郡山市教委も「県教委の意見調整を待ちたい」と話しており、県教委が最終判断を下すことになる。遣跡としての平城京が十条大路まで広がれば、教科書などに与える影響も大きい。両市の主張を折衷して新たな遺跡名が誕生する可能性もある。
同課の宮原晋一主幹は「学間的な決着をつけるために話し合っているわけではなく、遣跡としてどのように網をかけ、調査を深めるかが大切だろう」と話している。
★下三橋遣跡の条坊と羅城
下三橋遺跡で見つかった条坊は、平城遷都から20年後の730年ごろには廃絶したとみられている。宅地として積極的に利用された形跡もなく、道路に面した築地塀も確認されなかった。一方、九条大路の前面では羅城の遺構が検出された。8世紀中ごろの築造で、条坊廃絶と20年ほどの時間差がある。 【奈良新聞 7/13】