奈良時代の兵士は激務だった? 平城宮跡出土木簡 |
★平城宮跡で木簡 兵士の勤務表
天皇の権威を象徴する「駅鈴(えきれい)」を守った兵士の勤務表とみられる木簡が、奈良市の平城宮跡で見つかった。駅鈴は称徳8(764)年に起きた「藤原仲麻呂の乱」でも争奪戦が展開され、皇権発動に欠かせない“アイテム”だった。木簡での確認は初めて。
官庁街に掘られた奈良時代後半のごみ捨て穴で1点出土。一緒に出土した木簡群から、天皇を守る衛府が置かれたとみられている。
長さ約35cmで、「鈴守」と書いた下に、戌(いぬ)、亥(い)、子(ね)と時間ごとの勤務兵を2人1組で示していた。戌は現在の午後8時、亥は同10時にあたり、夜間も2時間交替で駅鈴を警備したことが分かる。
木簡は途中で折れていた。
駅鈴は天皇が過ごす内裏に置かれており、衛府から次々と当番兵が派遣されたらしい。同研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「物が物だけに緊張を強いられ、短時問で警備を交替したのだろう。24時間体制で守ったと考えられる」と話している。
駅鈴は情報伝達の最速手段だった駅馬の使用に必要で、天皇が与えることになっていた。御璽(ぎょじ)と合わせて天皇の権威を象徴、藤原仲麻呂(恵美押勝)は鈴印を孝謙太上天皇(称徳天皇)方に奪われたことで謀反のレツテルを張られて敗死した。 【奈良新聞 8/6】