棚田嘉十郎の執念と平城宮跡保存 |
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¥ ¥ 鹿くんのふ〜んなるほど。。。
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┃ ┃ 知られざる奈良の魅力を語る
“ ”/ 今回は「棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)〜
● 平城宮跡保存にかけた執念」の巻
開幕までいよいよ70日を切った「平城遷都1300年祭」。
いまから遡ること99年前、明治43年(1910)11月、3日間にわたって盛大に催されたという記録が残っている「平城奠都(てんと) 1200年祭」だけれど、当時の平城宮跡といえば、朱に輝く朱雀門もなければ、もちろん大極殿もなく……ただただあるのは田んぼや畑だけだったんだ。
当時、奈良に住んでいる人も、昔、奈良に都があったとは聞くけれど、 どこにあったかまではほとんどの人が知らないというのが現状。
この100年の間、いろんな人の尽力によって、平城宮跡のことが広く 知られるようになり、また保存整備されてきたわけだけど、この人なくして「1300年祭」は語れないってわけで、平城宮跡保存に生涯を捧げた人、棚田嘉十郎(1860〜1921)にスポットを当てるね。
嘉十郎は、添上(そえかみ)郡須川(すがわ)村(現在の奈良市須川町)の生まれ。植木屋で、奈良公園など、あちこちの植樹を行ったりしていたんだけど、観光客から奈良の都についてあれこれ訊ねられるたび、どこにあるかも知らず、ちゃんと答えられない自分を不甲斐なく感じていたんだそう。
それが1896年、都跡(みあと)村の知り合いから、都跡村こそがか つて宮跡のあった場所と教えられるんだ。すぐさま現地に行って「大黒の芝」「十二堂の芝」などと呼ばれる場所を目のあたりにして大感激はしたものの、牛の糞がいたるところに落ちているわ、臭いわ……その荒廃ぶりに相当がっかりしたらしい。
生真面目な明治男だったゆえに「何とかしなければ!」と思ったのも無理はない。そんな折りも折り、発表されたのが若手建築技師、関野貞 (せきのただす/1867〜1935)の平城宮大極殿に関する論文だった。この論文を心の拠り所に嘉十郎は、私財を投じて平城宮跡保存運動に乗り出すことになるんだ。
出土品の古瓦や敷地図の複製品を大量に作って、それを配布しながら近隣住民に保存運動協力を呼びかけたのはもちろん、たびたび上京しては 政府に保存を陳情していったんだ。その奔走ぶりたるやすさまじく、口さがない人たちからは「大極殿狂人」と陰口をたたかれることもあったそうな。
田山花袋が1905年に著した『奈良雨中記』に嘉十郎と思しき人物が登場するけれど、これなども嘉十郎の平城宮跡保存に対する熱さをいまに伝えてくれるよ。
そんな苦労の甲斐あって1906年、「平城宮址保存会」を設立するまでになる嘉十郎。宮跡地の買収も進め1910年開催された「1200 年祭」の中心的役割を果たしたのはいうまでもない。
そして1913年には紀州徳川家第15代当主、徳川頼倫(よりみち) を会長に迎え「奈良大極殿址保存会」を設立。満願成就まであと一歩に漕ぎ着けるんだけど、それまでの疲れがイッキに噴出。脳充血で倒れ、 失明してしまうんだ。弱り目に祟り目。1918年には最大の協力者、溝辺文四郎(みぞべぶんしろう)にも先立たれ、さらに篤志家を装い近づいてきた新興宗教団体の者に保存運動が利用されるという追い打ちも。
新興宗教団体の関与は保存事業を清廉潔白に進めてきた嘉十郎にとって何よりも屈辱的な出来事だったんだ。責任を痛感した嘉十郎は自刃する。 1921年8月16日のことだ。
その翌1922年、平城宮跡が国指定の史跡になった話などを知るにつけ、嘉十郎は平城宮跡保存に殉じたという想いを禁じ得ない。
現在、朱雀門前には右手で大極殿跡方向を指し示す嘉十郎像が建てられている。1300年祭開催の影にこういう人がいたんだってことを忘れずにいてほしいな。
【奈良県広報課「大仏さんのつぶより情報」第260号(2001.10.25)】
★冒頭の写真はJR奈良駅前に棚田嘉十郎が建てた平城宮跡への道しるべ(明治45年3月)★
現在は広場工事のためにフェンスに囲まれた中にある。