平城京の南端は? 十条大路?、九条? |
平城遷都1300年を来年迎える奈良県で、平城京の南端がどこだったかが論議になっている。05〜07年に道路跡が見つかった大和郡山市教委は、これが「平城京の十条大路」と主張。しかし奈良市教委は「正門である羅城門は九条大路にあり、それより外は都と呼べない」と反論する。県教委は今月、奈良市と大和郡山市をまたぐこの道路跡一帯を「平城京南方遺跡」というあいまいな名称で遺跡地図に追加記載することにしたが、論争は今後も続きそうだ。
平城京内は東西南北とも532m間隔の大路で区切られ、133m間隔の小路で細分化されている。これまで、条坊(碁盤目状の街区)の南限は九条大路が定説だった。
ところが、大和郡山市教委などの発掘調査で、九条大路より南で東西の小路跡が見つかり、造営当初の条坊が南に拡大することが判明。さらに九条大路の532m南で、幅14mの道路と南北側溝の選構を確認し、市教委は十条大路と断定した。発掘を担当した同市教委の山川均主任は「条坊の道路があるのに都城ではない場所は例がなく、平城京の一部」と主張する。遺跡が平城京の一部だった場合、定説が覆されることになる。しかし、奈艮市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長は「十条に相当する位置に条坊があったのは確かだが、文献に『十条大路』の名は登場せず、現段階で十条大路という呼称は不適切」と話す。県教委文化財保存課の富原晋一主幹は「今後新たな発見があれば名称の変更もあり得る」としている。【花澤茂人】 【毎日新聞 12.25】