平城宮跡保存の歴史を考えて見ようと(2) |
カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した、河瀬直美監督の映画「殯(もがり)の森」の舞台となった奈良市田原地区。茶畑が広がる風景は一躍有名になった県内有数の茶葉産地である。ここは又歴史の町でもある。北浦定政の顕彰碑を求めてきたが、道草を食って歴史の地を歩いてみた。
▼光仁天皇陵(田原東陵)奈良市日笠町
宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没した。そのため藤原百川(式家)・永手(北家)は、天智天皇の孫にあたる白壁王(父は天智皇子の子施基皇子)を擁立して光仁天皇とした。称徳天皇の死によって、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活する。62才であった。
天応元年(781)、病を得た光仁天皇は皇太子に譲位し、同年12月23日崩御した。山部親王は即座に、45歳で「桓武天皇」として即位した。藤原良継(716~777)の娘、乙牟漏が桓武天皇皇后となる。これにより、約100年続いた天武系統が途絶え、皇統は完全に天智系に戻った。光仁天皇は翌年広岡山陵に葬られ、延暦5(786)年、田原陵に改葬された。
▼太安萬侶の墓 奈良市此瀬町
田原東陵から県道80号日笠東金坊線を西へ約600メートルの近いところにある。茶畑のやや急な坂を登った中腹にある。
1979(昭和54)年1月、茶畑で木炭榔の床に墓誌と40歳以上の男子と推定される骨片・歯と小粒の真珠などが発見された。長さ39セソチ、幅6セソチ、厚さ1ミリの銅製の墓誌(重文)には『左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六目卒之養老七年十二月十五日乙巳』と刻まれており、続日本紀に記されている死亡年月目と一日しか違わないことから、記紀の編者太朝臣安萬侶の遺骨を木櫃に入れ、埋葬したものであろうと判定された(国史跡)。
▼切り付けの弥陀磨崖仏(南田原磨崖仏) 奈良市南田原町
県道80号奈良名張線の田原(バスは田原横田)から南へ約1.2km行った道ばたに大きな岩が露出していて、「切りつけ地蔵」とも呼ばれる阿弥陀如来・弥勒仏・六地蔵の磨崖仏がある。
阿弥陀仏 高さ2m、幅1m、奥行き35cmの彫り込みを造り、その中に高さ12cmの蓮華座に立つ、像高167cmの上品下生来迎印の阿弥陀像を厚肉彫りしている。その作風は、木彫仏に劣らぬ丁寧な技法で、熟達した石大工の作である。光背部分に
「一念弥陀仏即滅無量寿現受無比楽後生清浄土/元徳三(1331)年辛未五月日願主東大寺大法師定詮石大工行恒」
と銘文が刻まれる。定詮が願主となり、この地方の人々と街遣を行く旅人にも、阿弥陀仏の慈悲にあずからんことを願って造立せしめたものである。また、石工の行恒(経)は、有名な伊派石大工の一人で多くの作品を残す。
弥勒仏 阿弥陀磨崖仏の横に、やはり同じ大きさの枠取りを彫り込み、像高165cmの如来立像を厚肉彫りする。おそらく弥勒仏をあらわすとされる。面貌や衲衣の表現は、阿弥陀像と異なり、かなり稚拙な技巧である。造位年代も下り、室町時代の造立と思われる。
六地蔵 阿弥陀仏の左下方に、長方形の彫り込みを作り、像高26cmの地蔵像を六体刻む。大永三(1523)年十一月十一日の刻名がある。奈良市指定文化財
▼塔の森層塔 奈良市長谷町
切り付けの磨崖仏から更に南へ1.5kmほど行き、右手の日吉神社・塔の森の案内板をみて山道を入る。日吉神社の更に西の峯上に十三重の石塔が立っている、現在は六重が残されるだけであるが、奈良〜平安時代の造立とされる。
▼田原西陵 奈良市矢田原町
バス停「田原御陵前」(近鉄奈良駅から25分)にある御陵で、施基皇子(志貴皇子とも、天智天皇の第7皇子、母は道君伊羅都売)を祀り「田原西陵」と呼ばれる。奈良時代の律令制度では、都の中に墳墓の築造が禁じられ、平城京から遠く離れた田原の里辺りに貴族、官人らの墓が多く見られ、霊亀元年(715)9月に亡くなった志貴皇子は、宝亀元年(770年)第六子が光仁天皇に即位の時、春日宮天皇と追尊号を贈られた。田原天皇とも称して、万葉集に全部で6首の和歌が納められ「石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(巻8-1418)でしられる。