平城宮跡保存の歴史を考えて見よう(4) 北浦定政の墓所 |

正面 一心院遊山定政居士
右側面 明治四年未年正月七日没
北浦義助藤原定政墓
年五十歳
背面 こしかたのくひのあまりに/ゆく末の はてなき夢を
みるがくるしさ
こは定政ぬしのよみおき玉ひしを書
八十一蓮月
迂闊にも背面までは注意が行き届かず、後日『平城宮跡照映』に池田源太「平城宮址への接近』という論攷のあることを知り、その中に拓影が出ているのを見たのをここに記す(下右の拓影)。


定政の墓石の左には妻女満千の墓が並んで立ち、「海心院智光恵観大姉」「北浦定政室満千女」「明治十五年五月廿九日没」と刻字が読まれる。
さらにその左にはやや大きく子息の義十郎の墓が並び立つ(正八位とある)。この人が棚田嘉十郎に父定政の残した資料を渡したことが,棚田の平城宮跡保存活動に大きく踏み出すきっかけになったといわれる。