平城第488次調査 説明会の要旨(2) |
現時点における本調査の成果は次の通りである。
①坪内道路の規模
朱雀大路に接続する東西方向の坪内道路が、東へ少なくとも60mは延びていたことを確認した。左京三条一坊一坪の東西幅はおおよそ90mであり、坪内道路全体の2/3が明らかとなったことになる。その結果、側溝を流れる排水は朱雀大路東側溝から分岐する西側から東側へ流れていた可能性が高く、平城京内の排水体系の一端をうかがうデータが得られた。
また道路の規模は両側溝の心心間距離で9.5mをはかる。これは隣接する朱雀大路の約75mや二条大路の約37mには遥かに及ばないものの、この一坪と南隣の二坪をわける坪境小路(三粂条間北小路)の約7mよりも大きく、坪内道路としては最大クラスの規模である(数値はすべて両側溝の心心間距離)。
道路の造営時期を知る直接的な手がかりは得られていないが、奈良時代の建物群が道路の下層から検出されたことなどから、条坊の設定された遷都時よりは新しいとみられる。また道路の廃絶時期については、側溝内から出土した遺物からみて奈良時代後半の間におさまる可能惟が高い。
②坪内道路造営以前の建物群の存在
坪内道路が造営される以飾には正方位をとる南北棟建物(建物1~4)が建ち並んでいたことが明らかとなった。各建物の東西の柱筋は揃っており、同一の設計基準によって計画的に配置されている。また、これらの建物群と北側で確認されている鉄鍛冶工房群は、いずれも坪内道路造営以前の遺構であることを確認した。
建物2のような総柱建物は一般に高床の倉庫と考えられており、80㎡を超える大きなものである。また桁行8間〔約24m〕を超える長房状の掘立柱建物(建物1)も平城京内では異例の規模である。これらの建物の構造や規模をふまえれば、北側に展開する鉄鍛冶工房などの現業部門に対する事務・管理部門とみることも可能である。まだ全容は明らかではないが、この坪が遷都前後に平城宮・京造営の拠点であった可能性はますます高まったといえる。建物鮮は南方へ続くとみられ、来年度に予定されている本調査区南方の調査によって、建物群の広がりが明らかになることが期待される。
③坪内道路造営後の左京三条一坊一坪
今固の調査区からは、坪内道路より確実に新しい遺構は確認されなかった。この左京三条一坊一坪は、当初から朱雀大路との間に遮蔽施設をもたなかった可能性が高いが、坪内道路の設置にあたって、約4mの幅をもっ朱雀大路東側溝との間に橋が架橋されることによって、この坪への朱雀大路側からのアクセスの利便性は格段に向上したものとみられる。道路設置後の坪の利用方法を直ちに明らかにすることは難しいが、平城京内最大クラスの坪内道路や大型井戸の存在は、朱雀門、朱雀大路と一体的空間を形成していたこの坪の特殊性を端的に示している。
なお、3月10日から平城宮跡資料館で「発掘速報展 平城2011」が開かれています。5月27日迄。