東大寺・公慶上人坐像を拝む |
大仏殿の再建というと、鎌倉時代の俊乗坊重源上人(1121~1206)が余りにも有名だが、戦国時代に再度戦火にあって焼失した後約100年間は雨ざらしの状態であったという。これを元禄年間に再建したのが公慶上人(1648~1705)である。いままでどちらかというとあまりその業績を云われなかったが、最近その業績を改めて評価されるようになったとされる。
12日、勧進所内の「公慶堂」に祀られる『公慶上人坐像」が、公開されていたので、久しぶりに参拝した。東向きに立てられた堂の正面中央に祀られる像は大仏殿を仰ぐ向きに安置される。尖った頭、赤い目が目立つ像である。
◇公慶上人坐像(重文)
制作年代 江戸時代
像高 69.7cm 木造 公慶堂に安置する秘仏
4月12日、10月5日に開扉
公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわれる。13歳の時、東大寺大喜院で得度し、雨に打たれる露座の大仏を見て大仏殿再建の志を立てたという。貞享元年(1684)37歳の時、江戸幕府に大仏殿再興および諸国勧進を願上し、翌二年から勧進を開始した。貞享三年(1686)から始まった大仏の修復は6年を要し、元禄五年(1692)開眼供養が行われた(45歳)。さらに大勧進公慶は大仏殿再興に尽力し、宝永二年(1705)閏四月に大仏殿の上棟式を執行したが、三カ月後の七月十二日江戸で病にかかり、工事半ばで示寂した。享年58歳。没後、公慶上人の偉業を伝えるため、遺弟の公盛によって本像が造立され、翌三年(1706)五月、龍松院勧進所の御影堂に奉られた。ちなみに大仏殿の落慶は没後四年の宝永六年(1709)であった。
公慶の死の翌年、慶派仏師性慶と公慶の弟子即念によって製作された『公慶上人像』(重要文化財)は、充血した左目やこけた顔、数多く刻まれた皺など写実性に富み、生涯を捧げ復興に東奔西走した公慶の辛苦を今に伝える。本像は勧進所内に建てられた御影堂にあり、志半ばで倒れた公慶が完成した大仏殿を常に見上げられるよう、東を向いて安置されている。
本像は朱衣および袈裟を着けて、胸前で手を組み、畳座に坐して礼拝する姿をあらわす。袈裟の色は茶色を地とし、朱・銀の盛上彩色によって雲龍文を散らしている。表現方法ともに近世彫刻の伝統を踏襲し、衣文構成に形式の硬化と誇張が指摘できるのだが、しかし頭の鉢が大きく、小さな目が窪み、頬のこけた風貌は、生彩がある。柔和な表情のなかに公慶上人の不屈の信念があらわれており、像主の感情表現は写実的である。
「公慶年譜」によると、本像は大阪仏師の椿井民部法橋性慶と公慶の弟子即念の共同制作によると記している。町仏師の性慶が彫刻担当なのだが、公慶上人に親炙していた即念が、みずから「頭面」を模刻したという。「まことに、その生けるを見るがごとし」との評言は、二人の彫刻的技量を考えるのに示唆深い。本像は江戸彫刻のなかでも写実に優れた肖像として注目すべきものである。
作者性慶は本像造立を遡ること7年前の元禄十一年(1698)に当寺念仏堂の地蔵菩薩像(鎌倉時代)を修理しており、元禄十四年(1701)徳川家康(東照権現)像を造立した。椿井の姓は室町時代奈良仏師のひとつ、椿井仏所に求められ、江戸時代の寛文六年(1666)椿井仏所が分裂し、一派が大阪堺筋町に移り住んだという。即念は前に述べたとおり、公慶上人に長らく随ってきた弟子であり、他に大仏の光背のために京都の大仏光背を検分しており(正徳四年 1714)、また行基菩薩(享保十三年 1728)を椿井賢慶とともに作っている。
江戸で亡くなられた後、7月20日 遺骸は江戸を発ち7月30日 奈良に到着する。8月11日 五劫院に葬られる。9月15日墓所に五輪塔が造立される(平成17年12月奈良博で開催された特別展「東大寺公慶祖湯人」展図録年表から抜粋)。