平城京十条は恭仁京遷都時に廃絶か?。 |
◆「平城京十条」発掘報告書~大和郡山市教委刊行

◆還都後に九条に改変?
十条は短期間で廃絶された理由が謎の一つだったが、恭仁京遷都(740年)の時期に近づいたことで関連性も注目される。
報告書によると、十条は平城京の他の条坊と同じ「大尺(だいしやく)」が道路設計の基準となっていたことから、710年の平城遷都時に設けられたと推定。廃絶時期は発掘当初、730年ころと想定されていたが、路面上の穴から出土した土器などの分析により、下限が740年ごろになることが分かった。

碁盤目状の条坊制である平城京内は532m間隔の大路で区切られ、133m間隔の小路で細分される。05~06年の発掘調査で九条大路より南で小路跡が見つかり、07年には大路とみられる幅14mの遺構を確認。いずれも埋め戻されていた。京の造営当初は条坊が九条大路より南にあったことを示す一方、京域が途中で廃棄された、付属する離宮として建設されたなどの説が出ている。道路の側溝は人為的に埋められ、周囲の掘っ立て柱建物も大半が柱を抜き取られるなど、十条条坊は計画的に廃絶したと考えられる。同じ調査で九条大路推定地南側から見つかった「羅城」とみられる塀の年代は奈良時代後半で、十条廃絶後に整備された可能性が高い。
天平12(740)年の「藤原広嗣の乱」後、聖武天皇は都を恭仁京(京都府木津川市)に移転。紫香楽宮(滋賀県甲賀市)や難波宮(大阪市)を経て、5年後に平城京に戻っている。
大和郡山市教委の山川均主任は「十条は恭仁京遷都に伴って廃絶され、遷都後、平城京は九条に改変されたかもしれない」としている。

十条条坊は平成17~19年のイオンモール郡山の建設に伴う大和郡山市教委と元興寺文化財研究所の調査で見つかり、平城京を九条までとしてきた定説を覆す発見として話題を呼んだ。
しかし、短期間のうちに廃絶した▽朱雀大路をはさんだ西側で遺構が見つからない▽周辺の宅地開発が小規模ーなどの理由から十条を京外施設と考え、平城京の南端を九条までとする意見もあり、議論になっている。県の遺跡地図でも「平城京南方遺跡」と記載されている。
▽十条廃絶と遷都の関連性考えられる
東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の話
時期が下がるならば、平城京十条廃絶と恭仁京遷都の関連性は十分考えられる。平城京は当初、藤原京の延長で十条まで造られたが、遷都後の都市計画で中国的な思想がよりはっきりと打ち出され、九条までになったのだろう。