奈良女子大学・公開講座 5/14を聴講する |
講師:巧匠堂・浄土宗・東光山正楽寺住職 𠮷水 快聞氏
URL:http://www.kaimon.biz/
~講演は毎年1回ずつの講演で、今年で連続4回目に当たる。会場のS235階段教室は学生さんと社会人の聴講生で前の方はビッシリ!。初めて法衣姿で登壇された講師は相変わらず製作に力が入っている様子。今までと違って、大学時代専攻された“快慶”の話を始められる〜
●概要
鎌倉時代の彿師「快慶」東大寺南大門の仁王像を運慶と共に制作したことでその名を知られているが、しかし、‘‘天才”と称されよく話題にあがる運慶に対し、快慶については一般的にはあまり深く知られていない。快慶とはいったいどんな人物だったのか。快慶の仏像を復元模刻した体験を通し、運慶と照らし合わせることで見えてくる快慶の姿に迫る。
▼快慶の生没年
年没年不明、
○史料上の初見~「運慶願経」寿永2年(1183)
○没年は1221年~1227年の間と推定
・銘記の確認出来る最晩年の作例~奈良・光林寺(川西町保田)阿弥陀立像 承久三年(1221)~戦後の調査で足の枘より「承久三年法眼快慶」の墨書銘がみつかる~
・弟子行快作 京都・極楽寺 嘉禄3年(1227年)の納入品にこの時既に故人だったことが記されている。
<補足>城陽市富野南垣内81 極楽寺
1996年の調査をきっかけに修理が行われ、像内から4種類の文書が見つかった。
その中には、1227年の年記、仏師としてアン阿弥陀仏(快慶)とその弟子行快の名前、また一方で快慶の名は供養された人々の中にもあり、話題を呼んだ。その中の「現在過去帳」の裏書きに「アン(梵字)阿弥陀仏 法橋行快造之」とあり、この像がアン阿弥陀仏、すなわち快慶とその弟子である行快によってつくられたことがわかる。
一方「法花三十講経御名帳」は、1227年7月から8月にかけて法華経を毎日一つの章ずつ読誦する法会を行った記録である。おそらく仏像の制作と平行して行われ、身内の死者が仏と結ばれることを願って施主が布施を行い、それが仏像制作の勧進となったと思われる。
注目すべきは、その8月12日の分として「過去法眼快慶」と見えることで、この時点で快慶は物故していたことがわかる。これにより、この仏像は快慶によってつくられはじめたか、またはその予定であったものが、その途中で快慶が亡くなったために、行快が完成させたものと考えられる。
これまで快慶は生年、没年ともに分かっていなかったが、この像内文書の発見によって、没年については1227年ないしそれに近い年であることが知られることとなった。